共同体の一員となる意味

月曜日の夜は友達の家のマジリスに集まるのが恒例。

通常マジリスにはその家の主人をホストに、兄弟や息子たち、従兄弟や再従兄弟といった親族が集まる。

時折、メンバーの知人として外国人が招かれることはあるが数は少なく、同じカタール人であっても息子たちが学校の友だちなどを連れてくることはまずない。本当に身内だけの集まりなのだ。

マジリスに入ってきた人は、まず中央に座る主人と、そして反時計回りに挨拶をしていく。

子供たちも精一杯の大人顔をしながらの挨拶。しかし、明らかに外国人だと判る客に対しては、やや距離を置いたような雰囲気で握手の手を差し出すだけ。

そんな彼らは、私には当たり前のような顔で鼻ちょんをしてくる。私が日本人であることを彼らは知っている。それでもベドウィン式に挨拶をしてくるのには、「父あるいは兄の大事な友だち」という認識だけではない何かを感じ、嬉しいと同時にこそばゆい気持ちになる。

初対面の大人からもベドウィン式に挨拶をされることもあるし、部族の年長者に私が最敬礼の意味で額に口づけをしても笑う者は誰もいない。

 

そうすることが当たり前。

 

部族の中に居場所を与えられたことへの光栄と、外国人だからという言い訳が一切許されないという緊張がそこにある。

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