正しい言葉

言葉、すなわち言語は人間が他者との関係において最も重要な要素である。

現在、世界中で数千種類あると言われる中で、書き言葉(文語)と話し言葉(口語)に違いのある言語は少なくないが、アラビア語のそれは飛び抜けている。
そこに国や地域毎にある「方言」も加わり、日常生活におけるやり取りにおいては、文語である「標準正則語(フスハー)」だけでは不便を感じる場面が多い。
日常会話すら成立しないという状況が、多くのアラビア語学習者に対して口語(アンミーヤ)への偏重を促すこととなる。

確かにフスハーだけでは市場で買い物一つするのにも苦労する。相手にはこちらの言っている意味が伝わっているのに、返ってくる答えはアンミーヤだけ。そこで言葉のキャッチボールが途絶える。

では、フスハーは文章のみに存在価値があるのだろうか。
実際には、テレビのアナウンサーは皆フスハーで話しているし、日本など外国から輸入されたアニメの吹き替えも皆フスハーだ。宗教系を含めた学者の説法もそうであるし、国家元首や大臣ら政府要人がメディアの前で何かを話す時もフスハーが基本。
つまりは、フスハーとは「基礎」であり「教養」なのだ。

ここでいう教養とはある特定の階層における常識のこと。
八百屋のオヤジにとっては不要な常識なのだが、そういった一部の階層との接触だけから「フスハーは文語限定」と断定するのは早合点である。

一方、現地人との心地よい会話に「語学の楽しみ」を見出すアラビア語学習者の多くがアンミーヤに熱心になる。確かにそれで「アラビア語が身についていく」過程を実感することは可能だが、アンミーヤだけしか話せないと困ったことになる。例えば「目上の人との会話」や「大勢の人の前でのスピーチ」といった場面で恥をかく。それはアラビア語を学ぶ外国人に対するアラブ人からの「尊敬の気持ち」を裏切る行為でもある。

理想はフスハーもアンミーヤも完璧にマスターすること。しかしネイティブ同然のスキルは滅多に身につくものではない。特にアンミーヤは他言語における方言がそうであるように、単語だけではなく抑揚や間合いといったものが非常に重要で、生まれながらにその共同体の中で暮らしていなければ難しい面がある。

フスハーは抑揚などよりも文法や単語の正確さが重視されるため、多少たどたどしくても規則正しく話すだけで評価される。

「アンミーヤもフスハーから派生・変形したものだから、フスハーが身に着けばアンミーヤも自然と理解できるようになる。だからアンミーヤよりもまずフスハーに集中しなさい」

これは、かつて私が大学でアラビア語を学んでいた時の講師の言葉。

残念ながらその生徒(つまり私)はベドウィンとの出会いをきっかけに、フスハーを極めることから逃げてしまったが、後年になって大勢の聴衆の前で自分の生い立ちを話したり、テレビカメラの前でしゃべる機会がある度に、あの時もっときちんとやっておけばよかったと後悔しているとかいないとか。