捜し物

来週の今頃は、また日常に身を置いているはずだ。

昨日はドーハの職場に連絡を入れた。予定よりも延びてしまった休暇の調整を頼むのが目的だったが、久しぶりに聞く同僚や上司の声に、気持ちが一気に持っていかれる。

日本にいても、タイにいても、いつもカタールのことばかり考えてしまう。

写真を撮る身としては、あの国には絶望にも似た気持ちしか持てないままだというのに、私はまだあの国に隠された宝石を見つけていないような気がして、それが何なのかを知りたくて、だから諦めきれずにファインダーを覗いているのかもしれない。

写真という在り方

写真が”自己表現”という文脈で語られるようになったのはいつの頃からだろう。

海外の写真家、プロとして稼ぐ人、あるいは趣味としての写真を撮るアマチュア、いずれにしてもその作品には彼ら・彼女らが見たモノを、その時の感情を、見る人にどうやって伝えるべきかという苦悩を感じる。

写真を撮る存在とは、目の前の事象を自分とは違う何処かにいる誰かに伝搬する者のことだ。

ところが日本の写真を取り巻く事情はちょっと違う。

多くのアマチュア写真家が、写真の中に”自分”を表現しようと試みる。”自分”という存在を、その四角い画像の中に写り込んだ何かによって、見る人に理解されたいという欲求を強く感じる。

”自分らしさ”とか”個性”といった言葉に、あまりにも踊らされてはいないだろうか。

インプットのない所にアウトプットはあり得ない。それなのに、多くの人が”自分の中にある自分らしさ”を見て欲しいと言っている。

自分という存在は生きていく中で周囲の人達によって、時には似た者のように、あるいは全く違う誰かに変化しつつ形成されていくものだ。初めから個を確立して生まれてくる人などいない。

ならば、写真もまた観る人達によって様々な姿へと変化しても良いはずだ。

批評されることを”自分自身への批判”としか捉えようとしないから、それを恐れて心地よい言葉だけが溢れる場所へと逃げこむ。そうして写真は独り善がりに陥る。

カメラの話

普段持ち歩くカメラ、最近はFujifilm X70でほぼ一定している。
コンパクトで邪魔にならず、起動にややもたつくが、ササッと撮るにはちょうど良い。
画質は文句なし。ふらりとレストランで食事となっても、寄れるレンズでテーブルフォトもこなせる。

しかし、同じFujifilmのX-Pro2の写りをみてしまうと、どうしても2400万画素と1600万画素に差が見えてしまう。厳密にはセンサー画素数と処理エンジンの相乗効果による差だ。また開放でF2.8のレンズは夜のスナップでは苦しい場面も少なくない。

後継機が出るなら欲しいと思っているのだが、なかなか噂も聞こえてこないし、むしろX-E3などが出てきたことで絶望的な気分にさえなっている。

X100Fも考えないことはない。だが、あのレンズの描写、開放付近で最短距離に近いゾーンでは画が滲む、というのがどうにも好きになれない。同じ理由でXF23mmF2も寄れるからこそ手に入れたのに、あまり寄りたくないという感じになってしまっている。

ここはFujiを諦めてPanasonicで行くべきか。
幾つかの機材を買うために、Lumix GM1と単焦点を売ってしまったことを今更ながら後悔しているのは確かだ。
GM1とLumix G14mm、あるいはM.Zuiko 25mmは良い仕事をしてくれていた。寄っても滲まない描写は、ややデジタル臭さがあったものの、自分の好みには近い画を出してくれた。

しかし、そのGM1のラインナップももう存在しない。GFシリーズに吸収されたような格好だが、可動式液晶を持ったGFにはGMが持っていたシンプルさを感じない。

そういえば、リコーがGRデジタルを復活させるのではないかという噂も聞いたな。
しかし、眼に見えないほどの細かな砂埃が常に舞っているここでは、可動部分はできるだけない方が良いわけで、沈胴式レンズのGRを持ち歩くのは少し不安が残る。

なかなか、これだというカメラがない。
などと愚痴っている暇があったら、写真を撮るべきなのだ。実際のところは。

異国で暮らすということ

見知らぬ国を訪れる。美しい景色や街並み、あるいは行き交う人々の姿に心躍らせ、ここで暮らしたいと思ったことがある人は、決して少なくはないはずだ。

しかしながら、そこにある「心地良さ」は 、「お客さん」という立場に付随しているものに他ならない。どんな共同体でも、お客に対して無碍な扱いをするところはない。人間が本来持っているホスピタリティの心と、あるいは「2,3日すれば帰国してしまう、通りすがりの縁の薄さ」に対する警戒心の低さもあるだろう。

ともかく、そうやって味わった非日常を思い違いしたまま、いつかあの国で暮らす自分を妄想してしまう。経験値の低い若い世代ほどそうだ。

ところが、実際に生活の場をそこへ移そうとすると、相手の態度や反応が急に変わったことに気づく。お客さんならすぐ消えていなくなる。しかし、働いて暮らす住民となれば話は別だ。仕事を奪い合い、自分たちの習慣や倫理を破壊しに来た「外敵」となる。

ならば、彼らが持たぬものを持つ者であることを武器に戦うしかない。

祖国以外の場所で働きながら暮らすというのはそういうことだ。

レンズ購入

7Artisans(七工匠)の新製品「55mf1.4」の富士フイルム用が、Ali Expressで格安だったのでポチってみた。Ali Expressを利用するのは初めてだが、発注から到着まで中三日。国際発送なのに送料無料で満足度の高い買い物となった。

レンズ自体は作りも良く、ライカのコピーを彷彿とさせるデザインではある。
写りも申し分ない。何よりも35cmまで寄れるのが良い。最短まで寄って開放にしてもピント面がきちんと解像しているところも好印象。

理由

自分が何故写真を取り続けているのか、最近になってやっとわかった気がする。

若い頃に詩を書き殴っていたのも、イラストを描いたりしたことも、結局は同じこと。
自分の中にひたすら溜まっていく何かを吐き出す、それを形のあるものとして誰かに知ってもらう。

映画やドラマを観る時は、ハッピーエンドを求めていても、現実の世界というものは、常に救われない結末が折り重なって出来ていると、自分の中で何処か思っている。
だから表現したいものは、どこか切ない要素が見え隠れする。

記録としての「目の前の事象を定着させる」ような写真にも、もちろん関心はあるし、これからもそういった写真を撮り続けるつもりだ。それとは別に、もっと抽象的な、しかし絵画とは異なる印象を持った写真を撮りたい。ここ数日で強くそう思うようになった。

スマホで動画を撮る

1年半ほど使ってきたXperia Z3が壊れた。
液晶の左端、幅1cmくらいがタッチに反応しない。ネットで調べてみると、似たような症状が頻発しているらしく、どうやら「タッチ切れ」はZ3だけの持病のようだ。

そろそろ買い替えかなと思っていたので、ここはサクっと次の端末を購入することに。

またXperiaにするのもなんだかスッキリしないし、中華スマホはコスパ最高だけど使い捨てみたいなところもある。それに正直AndroidOSのアップデートの遅さには懲りている。NEXUSかPixelならその問題も多少緩和されるが、どちらのモデルもここでは手に入らない。

結局iPhoneに戻ることに。無印4以来だから4年ぶりか。7が出たばかりだったが、希望する色とメモリの在庫がなかったこともあり、型落ちで安めになっている6s Plusを購入。

ハッキリ言って、Android機でもiPhoneでもできる事は殆ど変わらない。
アプリなども殆ど同じものが揃っている。

iPhoneの強みは豊富なサードパーティー製アクセサリだ。
特に動画撮影に便利なパーツはAndroid機とは比較にならないくらい多い。

仕事でショートクリップ動画を撮ることがあり、手持ちのミラーレスで試してみたりしたが、取り回しやファイルの扱いを考えると専用機もありだと検討していたところ。
むしろiPhoneで撮った方がやりやすいのではないかと考え始めた。
必要なのは

・外部マイクロフォン(指向性。ステレオである必要はない)
・グリップ(ジンバルタイプが理想だが、簡単な延長グリップでも十分)
・ライト(可能であれば)

といったところが最低限か。これにアタッチメントレンズで広角と望遠が抑えられればいうことはない。

例によってB&Hでいくつかピックアップして、来週の職場主催のイベントで試してみたい。

写真の未来

ドイツで2年に1度開催されるカメラ・写真・映像の一大イベントであるフォトキナが今年も9月20日〜25日まで行われた。

最大の注目点は富士フイルムの中判デジタルカメラ”GFX 50S”だろう。

Xシリーズが始まった当初からハイアマなどの間で蔓延っていた「フルサイズ待望論」
それを一蹴する中判サイズセンサーの採用。これがフジの回答であり、またこれからの流れとなるのは確実だろう。

今は高価な中判センサーだが、5年もすれば、フルサイズがそうであったように、一般ユーザーにも手の届くところまで降りてくる。
それでもAPS-Cサイズのカメラが無くなることはない。どんなにボディが小型化できても、センサーサイズに対応する、センサーが欲するに足りる光を取り入れるためのレンズの設計においては、小型化に限界があるからだ。事実、ソニーのα7シリーズ用レンズは、そのボディには不似合いなほど大きい。

機動力を要求される分野には従来のXシリーズを、そしてスタジオ撮影や時間を掛けて撮れるコマーシャル撮影などの分野にはGFXシリーズを。富士フイルムの回答は単純明快だ。

恐らく2年後の次のフォトキナでは、より多くの中判カメラが登場するに違いない。
旧来の膨大な資産を有する大手メーカーにとって、新たに中判サイズの分野に足を踏み入れることは、その資産の否定にもなりかねない。
しかしながら、中判がより身近なものへとなり、またトータルな小型化が可能なAPS-Cサイズが画質をどんどん改良していく現状で、フルサイズはその立ち位置が微妙になりつつある。
ニコンがこのタイミングでD500を開発したのも、何か思うところがあったのではないだろうか。

やがては「フルサイズ」という規格がかつてあったのだと、昔話のように語られる時が来るのかもしれない。

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