マジリスの掟

昔、メンバーの大半が独身かつ5060代以上というちょっと風変わりな集まりに加わっていたことがあった。

もちろん集まってくる顔ぶれの殆どがカタル人だ。

基本的には同じルーツを持つ部族に属する者たち。こういった集まりをここでは「マジリス」と呼ぶ。

そのじーさんばかりが集まるマジリスでは、毎週決められた日に夕食を作って皆で食べる習わしがあった。

食事会には周囲に住む出稼ぎたちも自由に参加できたため、時間が近づくと彼らもマジリスの中へ入って待機する。

ある日のこと。そんな出稼ぎの一人が私の隣に座った。その時、私は奥の方にある長イスに座っていた。台所のすぐ近くだから、このマジリスで言えば末席のような場所だ。

直後、はす向かいに座っていた巨漢じーさんが、おもむろに立ち上がると出稼ぎに向かって、

「すまんの、わしゃそこに座りたいんじゃ、どいてくれんか」

そういって席を譲らせた。じーさんが窮屈だろうと私も立ち上がろうとすると、

「お前さんはいいんじゃ、そこに座っとれ」

みんなが「どうしたんじゃ?」と聞くと、じーさんは「いや、こっちのイスのほうが広いじゃて」と答えていたが、本当は違う。

なぜなら、どの長イスもサイズは同じ。

じーさんは暗に「タケシより上手に座るとは何事か」と件の出稼ぎを牽制したのだ。

出稼ぎは事情をよく飲み込めないような顔をしながら、マジリスの更に端へと移動した。

こういうと、アジア人蔑視だの、出稼ぎへの差別だのと、事情も知らずに騒ぎ立てる人がいる。しかし、マジリスの中にもそれぞれに立場があり、許されること、許されないことがある。それは上座下座という考え方を持つ日本も似たようなものだろう。

ここでいう立場とは、人種や国籍ではなく「そのコミュニティとどの程度関わっているか」で決まる。この場合は、マジリスとの関わりの問題。マジリスでも中心にいるメンバーの紹介でやってきて、ほぼ毎日のように顔を出し、時にじーさんずのワガママな頼みを聞いている私の方が、より深く関わっているということ。

実際、同じ出稼ぎでも私より古くからこのマジリスに出入りしている者なら、同じような行動をとっても睨まれたりすることはない。

ここの社会においては、立場をわきまえるということは最も大切なこと。

ましてや、相手が年上ならば、気心知れるようになるまでには、相当な時間と労力が必要だ。

長老の資格

ドーハへ渡ってきた最初の年のラマダーン。

当時はまだ独身だった私は、出稼ぎ外国人だらけの配属先に今ひとつ馴染むこともできないまま、朝晩とイベントに駆り出されるという忙しさの中に埋没することで、どこか寂しい気持ちを誤魔化していた。

その年の暮れには監督責任者と仕事のやり方をめぐって半ば喧嘩腰になり、上層部に直訴した結果、本省に戻ることとなる。

新しい部署でも外国人に囲まれての業務に変わりはなかったが、ほぼ定時通りの勤務時間となり、午後からは家にいることが多くなった。やがてラマダーンに入り、一人で家でイフタールを食べるのも侘しいと思っていたところへ、留学時代から世話になっている部族の若い衆から電話が鳴った。

誘われるまま、部族が集まって暮らすエリアへと日暮れ間近に車を走らせる。

エリアの中心に建つこじんまりとした古いモスクで、その場に居たイマームや出稼ぎたちと一緒に、日没後のナツメヤシを口にした。

その後マグリブの礼拝が始まり、そして終了したものの、周囲に顔見知りはおらずどうしたものかと立ち往生していると、最前列で椅子に座って礼拝していた老人から声を掛けられていた息子と思しき人物が、こちらへやってきて、「日本人のタケシだね?親父がイフタールを食べに来るようにと」

老人は部族の最長老だった。恐らくUAEにいる親族から私の話を聞いていたのだろう。

それからは毎日長老のマジリスでイフタールを食べることになった。

せっかちな性格の私は、日没の30分前にはマジリスに到着してしまい、いつも長老と二人きりで彼の息子や甥たちがやってくるのを待っていた。長老の話す湾岸訛りはキツすぎて私には何を言っているのか殆ど解らなかった。ただただ、元気にやっとるのか?UAEのあいつには連絡しとるのか?と、そんな他愛もない会話をポツポツとするだけだった。

ある時、イフタールの最中に長老が「タケシ、お前は結婚する気はないのか?」と尋ねてきた。

する気はあるけれど、なかなかいい人が見つからないので…とお茶を濁すと、

「そうか…で、嫁さんは二人欲しいか?」

冗談なのか、本気なのか、眼光鋭い長老の表情からはうかがい知れず、さりとて何と答えて良いのやら迷った挙句に、苦笑いでごまかしながら「一人で十分です」と言うと、長老は隣に居たやはり年配の親族に何か言いながら大声を上げて笑った。

初めて見る長老の笑い顔だった。

食事も終わり、紅茶も飲み干して、そろそろイシャーの礼拝の時間が近づく頃、いつものように「また明日」と言いながら席を立った。

モスクの脇に停めた車まで庭を横切ろうとしていると、長老の息子が駆け寄ってきて手に500リヤル札を握らされた。突然のことに驚いていると「これは親父から」だと。

私はお礼を貰うようなことは何もしてないよ?

「いいんだ。親父、今日はお前と話せて気分が良かったんだろ。黙って受け取っとけよ」

祖父が孫にお小遣いをあげるようなものなのか。そう思って、ありがたく受け取った。

それから数年後のラマダーン、いつものようにイフタールを食べるつもりで出掛けると、マジリスの扉が閉められたまま。

聞けば、体調を崩した長老は手術のために欧州へ向かったという。

その翌年の3月。

長老の埋葬に列席するために集まってきた人達の数は、それまで私が見た儀式のどれよりも多かった。

常に凛として威厳を失わず、部族の垣根を超えて誰からも尊敬されていた。

自分が歳をとった時に彼のようになれるかどうかなど、口にすることさえ憚られる。それほどに長老としての資格を十二分に満たす人だった。

お前の生に価値を問う

かつて湾岸諸国では、南アジアを中心とした地域から、ラクダレースの騎手として働くことを目的に、子供たちが連れてこられるケースがあった。

競馬の騎手が体重50kgを切るように、ラクダレースの騎手にも軽さが求められる。

それゆえに体重の軽い彼らは重宝された。

しかし人身売買に抵触するそのやり方と、レース中にラクダから落ちた場合の怪我の保証がなされなていないことなどから、欧米の人権活動団体などから厳しい批判を受け、15年ほど前からはムチとスピーカーを装備したロボットが騎手を務めるようになった。

そんな規制がまだなかった頃の話だ。

当時、毎日午後になると足を運ぶ砂漠の中の牧場に、南アジアから連れて来られた子供たちがいた。

浅黒い肌色の顔に幼い笑顔を見せる彼らは、やはりレースの騎手が主だった仕事だった。

レースのない日は、同じように砂漠に住み込んでいるインド人やスーダン人たちの仕事を手伝ったりしていた。

砂漠にはいつもローカルの友達の息子たちも顔を出した。

自分たちとさして歳は変わらない。毎日綺麗な服を着て、高そうな腕時計やサンダルを身につけ、最新の携帯電話でおしゃべり。彼らはどんな気持ちで見ていたのか。今となっては知るすべもない。

ある日、牧場に建てられた簡易なモスクの中でマグリブの礼拝を終えてのんびりしていたところへ、騎手役の子供が一人寄ってきて私のすぐ側に座った。

「クルアーン(コーラン)、読めるの?」

もちろん読めるよと言うと、彼は「読み方を教えて欲しい」と言い出した。

学校に通っているのが当然の年齢のはずだが、彼らは文字すら読めない。だから私が読んだものを耳で聞いて繰り返す。

その時、ローカルの子供たちが「文字も読めないんだから、教えても無駄だよ」とからかった。私は彼らを睨みつけ「お前らには関係ない。あっちへ行け」と怒鳴った。

たどたどしくクルアーンを読もうとする子供の姿は、もう一人の私だった。

私は神様から自身の生きる価値を問われているような気がしていた。

何不自由なく暮らしてきた私に対する苛烈なまでの問いかけ。

それから程なくして私は砂漠に別れを告げた。

あの子達は今頃何処で何をしているのだろうか。

十数年が経った今でも、あの時の問いかけに答えはまだ見つからないままだ。

二日目の決めごと

ラマダーン月が始まって二日目。

この日の夜は、ある人物を訪ねるのが自分の中の決めごとになっている。

彼は私がドーハへ来るきっかけをくれた人。16年前当時の大臣。

今は現役を退き、のんびりと人生を送っている。

彼のような社会的地位の高いカタル人の家(というよりは屋敷か)には、毎年ラマダーン月になると礼拝の後に施しを期待して大勢の出稼ぎ労働者たちが集まってくる。いくら太っ腹な大臣級の人であっても、全員に手渡すことなど出来ないし、ここ昨今の不景気も相まって、正門前で使用人たちが彼等を追い返す光景があちこちで見られる。

そんな人混みの中をかき分けるようにして、顔馴染みの使用人の手引きで中へと入る。

マジリスには当の本人と兄弟や息子、そして職場の関係者が座っていることが多い。

現役の重役だけでなく、既に引退した人たちの姿も見えるのは、彼の人徳を表しているように思う。

そんな中に私のような一般職員が入っていくのは正直言って勇気がいる。いくらその場にいる殆どがお互いに知っている間柄だとて、自分がそこにいること自体が場違いな気分になるからだ。

それでも、思い切って挨拶すれば緊張も一気に解ける。

大臣とは特に会話はない。彼は客の相手に忙しいし、世間話をするにしてもお互いに暮らす世界が違いすぎて、共通の話題もない。

10分ほどそこに座り、紅茶を飲んでしばらくしたら退席する。

年に一度しか会うことはないけれど、それでも彼や彼の部族とつながっていることを確認できたなら、それで十分。

選べない未来

カタルの教育関連機関との提携業務の一つで、タイ深南部の大学を卒業したばかりの女子12名が、今年からドーハ市内の訓練施設で暮らしている。

彼女たちはナニーとして訓練を受け、終了後はカタール人家庭に住み込みで働く予定になっている。

ナニーとは、いわゆるベビーシッターと違い、子供の世話だけではなく教育も請け負う仕事だ。

訓練が始まって半年ほどした先月に、各自カタール人家庭での実地訓練が行われたのだが、大半の家庭において「メイド」と混同されて、炊事や洗濯といった本来ナニーがやるべきではない仕事まで押し付けられたらしい。

残念ながら、当地には「ナニー」と「ベビーシッター」や「メイド」の違いをきちんと理解している人は殆どいない。アジア人女性=メイド。つまり「自分たちでやりたくないことは全部押し付けて良い」存在だと思っているし、実際に彼女たちの何人かは「すぐ側にあるものさえ自分で取ろうとしない」カタール人に呆れたという。

無論そんな家庭ばかりではなく、気持よく過ごせた人もいたようだが、全体としての印象はけして良いものではなかったようだ。

そんな彼女たちは、ラマダーンの休暇に入るため、昨夜のフライトでバンコクへ向けて出国した。

大使館経由で彼女たちの存在を知った妻は、彼女たちが暮らす寮を訪ねたり、SNSで交流を続けている。昨日も見送りに行くと言うので空港まで連れて行った。チェックインを済ませた後で、ほんの数分しか会話を交わす機会はなかったが、若い彼女たちの妻を見る目は「頼もしい大先輩」といった風だった。何もかもが初めての国でまだ暮らし始めたばかりの彼女たちにとっては、10年以上ここに住む妻の姿は大きく見えたことだろう。

訓練中は二週間に一度だけ市内観光のようなプログラムがあるだけで、基本的に外出は不可。

妻が寮を訪ねた際に、何か食べたいものがあるかと聞いたら「KFCが食べたい」と言った。そんなファストフードさえ自分たちで買いに行くことも出来ない。寮内では調理なども禁止されており、毎日アラブ料理ばかりらしい。故郷へ戻った今頃は、タイ料理を腹いっぱい食べていることだろう。

深南部は村が多く、殆どは仕事らしい仕事もない。まして高学歴の女性がそれを活かせる機会もなく、こうして遠い国に働き口を求める。「自分探し」などという浮ついた言葉を、生きるために働く彼女たちは知る由もない。

床屋の話

髭は男の嗜み。

この国では、男性はほぼ数日おきに床屋へ足を運んでは髭の手入れに余念がない。

私もできれば週に二度は行きたいところだが、色々と事情があって週に一度だけ、郊外の商業コンプレックス内にある床屋へ顔を出す。

ドーハに来たばかりの頃、職場の借り上げで住んでいたアパートの近くに小さな床屋があった。インド人が一人で切り盛りする、座席が二つしかないこじんまりとした店だった。再開発の波に飲まれるエリアの中にあったその床屋だが、取り壊しを免れて今でも同じ場所で営業している。

その店で店主の弟と知り合った。彼もまた床屋としてドーハに暮らしていた。

今日を無事に暮らせれば満足だといったふうな兄と違い、弟はビジネスに興味津々でいつも目を輝かせていた。

数年前、取り壊しの憂き目には合わなかったものの、大家が店の登録更新を渋ったことで床屋が潰れるかもしれないという事態に陥った。それでも彼は店の裏にある今にも崩れそうなボロい住まいの庭先に椅子と鏡をしつらえて、半ば潜りのような格好で床屋家業を続けていた。今更故郷へ戻っても仕事もない。生きていく為にはそうするしかなかった。

そこにも何度か足を運んだ。その頃には私は市内を少し離れたところにアパートを借りて暮らし始めていた。近所にも何軒か床屋があり、試しに店に入ったみたものの、どこも今ひとつしっくり来ず、結局週末になると車を走らせて件のインド人のところへ。

その潜りの床屋もしばらくして閉鎖された。

その後、しばらくは電動式のバリカンを買って自分で処理していた。

1年ほど経った頃だろうか、弟からふいに電話がかかってきて、郊外に出来たばかりの商業コンプレックスに新しい床屋を開いたと聞かされた。

それから再び彼らとの付き合いが始まった。兄の店はその後何とか新しいスポンサーが見つかり、営業を再開しているらしいことも知った。

この間に彼らから何度かお金を無心された。必ず返すからという言葉には嘘はなくとも、それが起こりえないことも知っていた。そして、返ってこないことを承知でそれなりにまとまった額を手渡した。

予想通りその後彼らからお金を返すといった話が出てくることはなかったが、私が店へ行くと弟は代金を受け取らなくなった。それは今でもそのままだ。おまけに頼んでもいないのにお茶やジュースが出てくる。それが彼らなりの恩返し、といったら大仰だが、そういう付き合い方もあるのだと自分を納得させている。

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