施し

タイ深南部の村では、家族の誰かが援助を必要とする事態に出くわすと、隣近所や親類を家に招く。招かれた先では簡素な食事が提供され、参加者は幾ばくかの寄付をする。額は大体200バーツが相場だ。

今日もそんな食事会に誘われたとかで妻と義妹、義父母を乗せて出かけることになった。

今日の招集理由は「息子が交通事故に遭い、手術や入院の費用が要る」というものだった。

会場に入ると男女別に分かれて座る。義父が隣にいるので心強いものの、マレー語がからっきしなので、いつもこういう席では落ち着かない。

今日は幸いサウジ出稼ぎ経験のある年配者が複数いて声を掛けてくれた。やはりアラビア語で話している方が楽だ。

白い髭を蓄えた恰幅の良いおじさんは、タバコに火とつけスパスパと吸いながらサウジにいた頃の話をしたり、私がカタールでどう暮らしているのかを尋ねたり。アラビア語話者には宗教系学問を修めるためにアラブ諸国に渡った人が大半だが、たまにこういうチョイ悪オヤジもいて、何故か気に入られたりするのが毎度のパターン。

食事はカノムチーンという「素麺のような米粉麺に魚のすり身カレーを掛けて」食べる料理。

一杯だけ頂き、帰り際に家の主人か奥さんに寄付を手渡してその場を後にする。

施す方にプレッシャーを与えず、施しを請う側も惨めな思いをせずに済む。村人たちの知恵の一つだ。

もう会えなくなってしまった人へ

 

あなたには聞きたいことがたくさんあった。話したいことがたくさんあった。

きっとこれからも聞いて欲しい出来事はたくさん起こるだろう。

でも、目を細めて笑いながら話を聞いてくれるあなたはもういない。

同じ国に縁を持ち、その国に生まれ育った人を伴侶とし、長い年月をそこで過ごしたあなたは、私にとってこれからもずっと憧れの人。

あの国を見下ろす窓から、私はあなたのことを思い出すだろう。

トランジットの人混みの中に、私はあなたの姿を探してしまうだろう。

あなたの落胆した顔を見たくないから、この先も私は全身全霊でファインダーを覗こう。あなたがそうしてきたように。

 

短い間だったけれど、あなたと知り合えたことは私の人生にとって代え難い大切なこと。

 

ありがとう。

そして、さようなら。

回帰

タイへ帰るたびにいつも思うことがある。

それは、連れ添って10年になる妻のことだ。

彼女が生まれたこの村は、今でこそ舗装路が整備されたり、すぐ横を流れる川に橋が掛けられたりしているが、10年前に私が初めて訪れた時は、林の中へ分け入るような感覚の、まさに田舎の村といった様子だった。

妻はここから更に坂を越えた奥の村で生まれ、小学校へ上がる前に今の村へ移ってきたという。

子供の頃は毎日家の手伝いで、薪をくべて火を焚き食事の用意をしていたらしい。

大学では寮生活を送っていたが、山奥の大学から一番近い町といっても目抜き通りに商店が建ち並んでいるだけで、バンコクのような高層ビルが見えるわけでもない。

その妻が初めてドーハの街に降り立った時は、一体どんな気分だったのだろう。

毎週のように巨大なモールへ出かけたり、ホテルのレストランでビュッフェを食べたり。そんな暮らしぶりが当たり前になった今でも、村へ帰れば田舎の娘に戻る。義父が屠った鶏の毛をむしり大きな中華包丁で器用に解体する姿を、私はいつも不思議な思いで見つめてしまう。

年の1/3を暮らし慣れたタイの村、残りをドーハの街で過ごす彼女は、いったい何を感じているのか。5年ほど前に実家の向かいで売りに出ていた広大な土地を買った。その一角に自分たちの家を建てた今では、いつか村へ戻って暮らすことが彼女には当たり前の未来として映っている。そう思えば、彼女にとってのこの世界はやはり村での暮らしにあるのだろう。

日本を飛び出て20年近くが経ち、もはや祖国で暮らすという選択肢がほぼあり得ない私には、村に帰れば生き生きとしている妻が羨ましくもある。

忘却の果て

 

タイの深南部はパタニ県にある妻の村へ帰省している。毎年恒例でラマダーン明けのイードを過ごすためだ。

村ではジジババたちから大歓迎を受け、姪っ子たちのマレー語口撃に面食らいつつ、行く先々で美味しいものをたらふく食べて、といういつもの満喫パターンである。
こちらの文化では出されたものを食べないのは失礼に当たるので、とにかく食べる。数軒訪ねたあとで腹がはちきれそうでも食べる。

特にイード当日から数日間は、親戚筋を訪ねて回るので忙しい。
とはいえ、マレー語がほとんど出来ない私は、訪問先ではぽつんと座っているだけ。運が良ければ親類やそのご近所に時折学校の先生をしている人がいる。彼らはアラブ諸国への留学経験があり、当然アラビア語も流暢。そういう人がいるとホッとしてしまう。

イード二日目の今日も、義母方の祖母の家に始まり、二軒隣に独りで住んでいたおばさんを訪ねて行った。おばさんは数年前にアルツハイマー型認知症を発症し、去年から弟夫婦の家に引き取られて暮らしている。
奥の部屋に寝たきりになってしまったおばさんに男性の私は会うことは叶わなかったが、面会した妻の話では症状がかなり進んでいて、妻のこともおそらく覚えていない様子だったと。

少しずつ記憶が消えていく。ヒト一人が歳を重ねていく道程で選ばざるを得ない選択肢の一つだとしても、あまりにも悲しくやるせない。

 

重なる文化

イードの休暇を利用して、毎年ラマダーン月の最終週にタイの村へ帰省する。

妻が生まれ育ったその村は、マレーシアとの国境まで40kmのところにある。村を縦断する対面通行の道路の左右にはゴムの木などの農園が広がり、その切れ間に時折民家が見え隠れする。

住人の殆どが50から60代以上の年長者か、中学高校以下の子供たち。働き盛りの世代はみんな遠い街か、隣国のマレーシアへ出稼ぎに出ている。

同じムスリムといっても、湾岸のそれとは文化も考え方も違う。来たばかりの頃は色々と戸惑うことが多かった。

そもそもが、結婚するなら日本人か湾岸人が良いと公言していた私は、アジアには全く興味がなかった。

当時、ベドウィンの文化や生活にドップリと浸かって暮らしていた自分は、カルチャーショックなどとうに通り越し、異文化というものの怖さ、あるいはその中で余所者がそれを自分のものにするまでにかかる時間や必要なエネルギー量を身をもって知っていたつもりだった。

だから、結婚相手としてまた違った文化圏の人と暮らすこと、すなわち異なる文化をさらに背負うことに、正直言って消極的だった。

あれから10数年が過ぎ、タイの中のマレー社会という、異文化どころか多重文化の中に身を置いている。

村に滞在している時の自分は「日本人」というよりは「ベドウィン」がベースになっているように思う。それは、大家族の多世代社会や同じ信仰という共通点を抱えているからかもしれないし、あるいは自分自身がベドウィンたらんと意識し続けていることの顕在化なのかもしれない。

ベドウィンに憧れながらも、それでも思うのは、特定の「何者か」になる必要などないということだ。どんなに着飾ってみても所詮借り物。まして歳を取るほどに表面的なものよりも中身が問われる。自らが身を置く社会を理解した上で、そのしきたりに従い、礼儀作法を身に付けているか。

一生学び続けることこそ、人が生きるための糧だというのなら、様々な文化を背負う今の状況も悪くはないのかもしれない。

タイに帰省中

ドーハからの道中で気づいたことが2,3。

バンコクのスワンナプーム空港で毎回SIMカードを買うのだが、去年辺りからパスポートの提示が義務付けられた。当初はコピー機でコピっていたのが、今回は専用アプリが入ったスマホで該当ページを撮影してスキャンで数秒で登録完了。データ容量などお得感が毎年上がっていくのは相変わらずで、さすが観光大国は企業も対応レベルが違うなと。

もう一つはバンコクからナラティワットへの飛行機の中。この路線はタイ航空の関連LCCであるタイスマイルが唯一飛んでいるのだが、機内食が今回から刷新。一時間半の飛行時間でこれまではオレンジジュースとミネラルウォーター、それにマフィンのようなお菓子が一つだけ袋詰になって配給だったのが、今回はちゃんとトレイの上に熱々のチーズサンドといちごのゼリーそしてミネラルウォーターが。しかも食事は全てハラール認証マーク。

ハラール認証の是非は自分も色々と言いたいことはあるが、ここで大事なのはハラール認証食事になったからといって運賃が割増になったりしていないという点。またタイスマイル側は殊更ハラール対応を宣伝しているわけでもなく、深南部路線ならムスリム客が多いのだから当然だということだろう。
普段は出されても食べられなかった。嫁さんは嬉しかったのだろう、珍しくサンドイッチを完食していた。

三日目までの予約が要るような料理を設定して「うちはハラール対応です。グローバルです」とドヤ顔してるどこかの国のホテルやレストランは見習ってほしい。

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